第3619回
日本の茶道ももとは舶来品
普洱茶に馴染んだついでに少し講釈をすると、
もともと雲南の原住民は昔からお茶を飲んではおらず、
茶の葉を漬物にして食べていたのだそうです。
それが前漢の時代に、
漢族が四川省あたりでお茶を飲むようになると、
その習慣が雲南地方にも伝わって、
お茶をつくるようになったが、
たまたま普洱という町がお茶の集散地だったので、
普洱茶という名がついたのではないでしょうか。
お茶は保存と運搬に便利なように、
最初の頃は塊につくりあげ、緊茶とか圧茶とか呼ばれ、
それが散茶として普及したのは明代になってからのことです。
従って唐の時代の留学僧たちによって
日本に持ち帰ったのは恐らく煉瓦のように
塊にされていた頃ではないかと思いますが、
抹茶が日本に持ち込まれて茶道の素材として
今日に至っているのに対して、
中国では宋の時代になると次第に姿を消しているのを見ると、
抹茶は唐の時代に既に長安あたりで
坊さんたちの間に受け入れられていたことがわかります。
お茶は唐の国から日本に伝来し、
「茶の湯」という独特の文化として
日本を代表するようになりましたが、
気候や天然の条件の違いで、
緑茶を中心とした親しまれ方をしたのに対して、
中国では普洱茶とか烏龍茶とか言った醗酵茶が定着し、
のちにヨーロッパの国々がアジアに向って交易船を進めた時は、
お茶や香料を手に入れることが大きな目標になりました。
北京語でも広東語でもお茶のことをツアと言うのに対して、
英語でもフランス語でも、
厦門風にティと呼ぶようになったのを見ても、
ヨーロッパの船団が真っ先にお茶に接したのが
福建あたりであったことがわかります。
茶祖と呼ばれる茶経の著者陸羽も
「お茶は南方の産」と言っていますから、
恐らく茶の木は福建省、広東省あたりから四川省、
雲南省までの地域に自然に育っていた物が
日本まで持ち込まれて、
信長や秀吉やその時代の豪商たちの
貧乏ごっこの対象になったのではないでしょうか。
日本のお茶はラーメンと同じくもともと舶来のものだったのです。
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