20. 人の集まる所へ金も集まる
遠くなる「地方の時代」
最近の私は一カ月に二〇回前後、講演がある。他の仕事との割り振りから見て、とてもそんなにたくさんはこなせないのだが、講演を頼まれるのも好意を持たれ、見込まれた上のことだと思うと、時間の都合さえつけばつい引き受けてしまう。講演の申し込みの三分の二は地方からだから、二〇回のうち十二、三回は地方へ出かけて行く。
地方旅行も月に一回か二回ていどなら、さほどのことはないが、私のように回数が多く、しかも全国的なスケールになると、地方に共通の傾向がいやでも目についてくる。あまりにもあちこち飛び回るので、地方都市のどの町がどうだったか、お互いに混線してしまうことも多い。それというのも、日本の地方都市はどうしてこんなにもよく似ているのだろうか、と感心させられるほどよく似ていて、個性的な町が案外、少ないからである。
地方都市の中には、「何もやることがなくなったら」こういう町に住みたいなあ、と思わせるような雰囲気のところがある。土地が高いといっても、私の住んでいる渋谷界隈に比べれば一〇分の一以下だから、その気になれば敷地が一〇〇〇坪、二〇〇〇坪の大邸宅を構えることもできる。しかし、実際にそういう町に住んでみて、さて、何の仕事ができるだろうか、と思案してみると、やれる仕事がほとんどないから、「何もやることがなくなったら」という前提が必要になる。何もやることがなくなるのは「死んだ後」か「頭が呆けてしまってから」だから、結局は空想妄想に終わってしまう。
だからといって、地方都市がイヤなわけではない。地方都市でちゃんと立派に事業を成功させている友人もたくさんいるし、「こんな人口の少ないところで、よくぞこれだけの事業に仕上げたなあ」と感嘆おくあたわざる人に出あうこともある。もしこの人が同じことを東京か大阪でやっていたら、おそらくもっとずっとスケールの大きなものになっていただろうと、友人のために残念に思うこともある。それほど地方都市で事業に成功するチャンスは少ないのである。
ところが、地方に住んでいる人は必ずしもそうは思っていない。自分たちの住んでいる土地を中心にして物を考えるので、土地の若者たちが故郷を捨てて大都市に出稼ぎに行くのを無念に思っているし、何とかして自分たちの街を栄えさせる方策はないものかと、真剣になって考えている。よそ者の私にまで秘策をさずけてくれないか、と盛んに頼む。
私がきくと、それは魚の通らないところに魚がくるようにしてくれ、といっているようにきこえる。いまいる魚を釣る方法ならまだいくらか脈があるけれども、そういうことにはたいして興味を示さない。ダイエーやイトーヨーカ堂やジャスコが中央部から乗り込んできて、自分たちのお金を吸い上げられていくのだから、自分たちでそのお金を儲ける方法を考えたらよさそうに思うが、そうは考えない。自分たちが住んでいる街のことについては自分たちが一番よく知っていると思い込んでいて、そうした在来の体制を転覆する発想など思いも及ばないのである。 |