酒屋、雑貨屋、肉屋、魚屋、八百屋、果物屋、駄菓子屋、お茶屋、パン屋、衣料品店、荒物屋、化粧品屋、電気屋、ふとん屋……と指折り数えて行くと、街の商店街の大部分が地盤沈下をして、店じまいをする光景が目に浮かんでくる。もしこれらの店がいっせいに店をしめてしまったら、商店街どころか、町全体がさびれてしまうのではなかろうか。
事実、地方都市の変遷をふりかえってみると、商店街が結束してスーパーの進出に反対するので、スーパーは駅の裏の人家もまばらな田圃の真中とか、砂利置場の跡地を買ってそこに店をひらく。一軒の店に入って買物が全部できてしまい、その上、品揃えが豊富で値段が安いとなれば、商店街のおかみさんだって反対期成同盟会長の娘さんだって、いそいそとスーパーに出かけて行く。
人が集まれば商売になるから、花屋やケーキ屋や呉服屋や洗濯屋や喫茶店などスーパーとあまり競合しない業種は、スーパーの通りに店びらきをする。するといままで田圃だったところが賑やかな街並みになり、かつての商店街や三業地といわれたところは人通りが途絶え、商売が成り立たなくなってさびれてしまう。商売が成り立たなくなれば、店じまいをして店を売り払いたい人がふえる。貼紙こそしていないが、ふとん屋も売りに出ている、小間物屋も売りに出ている。染物屋も売りに出ている、となれば、上がる土地も上がらなくなってしまう。
一つの町を見ていると、年とともに栄えてくる地域と、年とともにさびれて行く地域が際立ってきて、「町というものは生き物みたいだなあ」という印象を深くする。
私から見ると、さびれる地域で商売をやっていたのでは、早晩、駄目になるのだから、さっさと店じまいをして、別の仕事に移るほうがよいと思う。もちろん私なら、さっさと見切りをつけて商売替えをしてしまう。
ところがたいていの人はそれをやろうとしない。スーパーがきた途端に一挙に売上げが半減して、毎月、赤字が続くようなら、すぐにもやめる決心をするが、しばらくこらえていると、半減した売上げがまた少し恢復して、「この調子なら、どうにかなるんじゃないか」と気をもたしたりするからである。
多くの人々は変化をおそれ、惰性で生きたがる性質があるから、思いきった商売替えができないのである。 |