私の知っているある衣料品屋さんは、湘南地方の戦後、人口のふえ続けてきた地方都市の商店街にあり、もう三十年も商売をしてきている。物の不足した時代、衛星都市に人口の集中した時代には、ご多分にもれず、うまみのある商売をしてきた。商売のうまく行っていた間に、私のいうことをきいて、近所隣の地所を買ったり、アパートを建てたりしてきたので、全体としての収支状態は悪くないが、もう十年も前から、衣料品店の売上げははかばかしくなくなってきた。
その理由は、(一)近所にスーパーができて、ワイシャツや肌着や靴下のような日用品のお客は、スーパーにもって行かれてしまったこと。(二)お客の嗜好が年とともに高級化してきたが、高級品は東京のデパートまで買いに行く人がふえたこと。(三)店が狭いから、実用品を大々的に売る店に転換することができないし、かといって、エルメスやランバンなどの舶来高級品を売る専門店に切りかえようにも、地方都市にはそれだけの需要はない。したがって、(四)いままでの中途半端なやり方を続けていると、だんだん地盤沈下が激しくなって、ついに社長の月給が払えなくなり、そのうち奥さんの月給もあやしくなってしまうだろう。
どうしたものでしょうか、という相談であったが、私の出した答えは、商売を続けることではなくて(一)廃業をして、店を他人に賃貸しする。(二)転業して、ケーキ屋か、ラーメン屋か、カレーライス屋になる、ということであった。衣料品屋はまったく駄目と言うわけではないが、衣料品屋をやるためには、スーパーもデパートも考えつかないような斬新なアイデアで経営すること、その場合でも、場所を選ぶから店を別のところへ移さなければならない、といったのである。
しかし、私に相談した人は、私のいうことはよくわかるといったが、どれ一つ実行しようとしなかった。一番大きな理由は、長いことやってきた商売をやめることにオバアさんが反対したからだそうであるが、そのためについに奥さんの給料はおろか、オバアさんの給料も出せなくなってしまった。
それでもまだ商売がやって行けるのは、家賃がタダだったからということになる。 |