書籍版まえがき 1998年12月に書かれた文章です

一九九七年七月、香港の中国返還とほとんど時を同じくして、タイのバーツの暴落がはじまると、通貨不安はたちまち東南アジア各国に伝染して広地域にわたって産業界がピンチにおちいった。
ジャーナリズムは□を揃えて、東南アジアの経済成長が幻に終ったことを報じ、ドルがアジアからアメリカに引き揚げているのでニューヨークの株はもっと高くなるだろうといったたあいのない論調を展開した。
やっぱりジャーナリストは実務にたずさわっていないから、こんな報道をするのだなあ、と私は受け取ったが、もちろんそうした見方に同調したわけではない。東南アジアの経済が危機に瀕したら、株価も暴落するし、通貨も暴落するから、外国から流入していた資金は臆病風を吹かせて逃げ腰になる。
そのことは別に問違ってはいないけれども、もうその時にはお金を借りた企業も返すお金がなくなっているのだから、現地で焦げついたお金を持って帰れるわけがない。株なら安値で叩き売って、大損をして逃げ帰ることができるかも知れないが、企業に投資したお金や貸付金は釘づけにされた上に、最悪の場合は回収不能におちいってしまうことも考えられる。
だから逃げて帰れると思うのも間違いなら、逃げ帰ったお金がニューヨークで株を買ってニューヨークの株がもっと高くなると思うのも間違いである。
第二に東南アジアの一角で起ったことを東南アジアだけの出来事と思うのがそもそも間違いである。この十五年あまりの間に東南アジアの工業化が猛烈な勢いで進んできたが、それはボーダーレスの時代になって、アメリカがドルの垂れ流しをやるようになったからであり、また自分たちの国で生産しても採算に乗らない商品は輸入に切りかえ、自分たちは相変らずドルの垂れ流しを続け、外国人にドルを払い続けてきた。そうして外国人の手に渡ったドルをまたかき集めてきてカネでカネを稼ぐ魔術に夢中になって今日に至っている。そうしたアメリカのマネーゲームと密接にかかわりあっているのである。
この十五年の間に一番たくさんドルを稼いだのは日本であったが、そのためにドルにふりまわされてキリキリ舞いをさせられたのもまた日本であった。その結果空前の円高になり、対米輸出の生産基地としての優位を失った日本は、少しずつその生産基地を東南アジアに移してきた。
急速な工業化のはじまったアジアの国々では、開発に必要な資金をアメリカや日本からのドルの借り入れにたよったが、それが一巡して生産体制に入っても必ずしも所期通りの貿易黒字をもたらさなかったから、そのスキマを国際的な投機集団にうまくつけ込まれたのである。
そういうスキがあったからこそ国際投機集団の空売りも成功したのであろうが、世界中の株価を押し上げたのもアメリカ政府の濫発したドルなら、各国の経済を押し倒す力として働いたのもまた同じアメリカのドルである。
その結果は、アメリカの輸出産業にも大きく響くし、何よりもアメリカのファンドや銀行の海外投資を焦げつかせることになった。
とりあえず、アメリカのヘッジ・ファンドが潰滅的な損害を受けはじめたが、ご承知のようにアメリカの銀行ももはや産業界に資金を提供する金融機関とは言い難く、株式投資や為替の先物売買にバクチの資金を提供する胴元になっているから、投じた資金の回収ができなくなれば、日本の銀行が一足先に経験したことをアメリカもまたくりかえすことになる。
この数年、私はずっと「いまにアメリカも日本の二の舞いを演ずるようになるぞ」と思ってきたので、その兆候が東南アジアで勃発すると、「明日はどうするつもり」と題して、九八年一月号の『Voice』誌から三カ月に一回のぺースで九九年一月号まで五回にわたって私の見方を発表させていただいた。わざわざ各章ごとに執筆日を記したのは、三ヶ月毎に起った変化を頭に浮かべていただきたかったからである。
最初からこれは東南アジアの一角に起ったことではなく、一貫してアメリカのマネーゲームに端を発したものであり、震源地はアメリカであると私は主張してきたが、敗色が濃くなってきたウォール街でも、遅蒔きながら漸く同じ見方をする人がふえてきたのではないかと思う。
むろん、この本に提案していることだけで問題が解決できるわけではなかろうが、好むと好まざるに拘らず、日本も中国もその他のアジアの国々もアメリカのマーケットをたよりにしてはやって行けない時代になることは避けられないだろう。
となると、企業としてもまた個人としても生き残るためにはどうしなければならないか、自ずからわかってくる筈だ。
なお本書がこういう形で世に出るについては、『Voice』誌編集長松本道明さん、第一出版部編集長今井章博さん、同出版部中澤直樹さんのお世話になりました。ここに改めて感謝の意を表します。

一九九八年十二月吉日

邱永漢
北京市亮馬河畔の寓居にて

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