死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第73
坊さんは呼ばないで

人のことはさておいて、
自分の葬式に対する注文をここに書いても、
皆さんのご迷惑にはならないだろう。
私は想像力の乏しい人間だから、人の世に生きながら、
幽明境を異にするような夢うつつの生活はできない。

したがって、
生きているうちに葬式を出したり、
死なないうちから墓をつくったりすることはできない。
しかし、未来を見透し、
準備をしておくことについては、割合にたけた方だから、
葬式はこうやってもらいたいという注文ならできないことはない。

さきにも述べたように、
先ず第一に自分の葬式に坊さんは要らない。
ふだん、付き合いがないのに、
死んだ途端に坊さんに押しかけられてはたまらないし、
しかも何をうたっているのか
まったく見当もつかないお経を聞かされたのでは、
死んでも耳を塞がなければならなくなる。

第二に戒名は不要である。
戒名にもランクがあって、
ランクの高い戒名を得ようとすると、
包み金も莫大になると聞いているが、
それはお寺さんの商売にすぎない。

高いランクの戒名を頂戴したから、
死人としてのランクが上がるわけではないし、
人にお金をだまし取られた時ほど無念なことはないと、
ふだんから思っている者が、
死んだ途端に、自分の死をダシにして
遺族がお金をむしり取られるのを見るのでは、
それこそ死ぬに死に切れないであろう。

だから、もし戒名がなければ成仏できないのなら、
自分の戒名は自分でつけておきたい。
私の場合は、先見性を発揮することに
無上の喜びを感じて生きてきたのだから、
先見院というのがよいだろう。

また、これは良いと思うアイデアが浮かぶと、
それを実行に移さなければ気がすまない方だから、
力行居士とでもいうのがふさわしいであろう。
こう書いただけで、
自分の戒名はもう出来上がってしまったようなものだから、
どの字にどれだけの値うちがあるかこだわらなければ、
これで百万円ぐらいは節約になったのではあるまいか。

第三に墓をつくる場合も、
「邱永漢之墓」というのがよい。
家族もひっくるめた「邱家之墓」でもかまわないのだが、
何しろ、世の中には好事家というのがいて、
私の墓をわざわざ見に来る人もあることだろう。

そういう人の好奇心を満足させるために、
私の名前がないと困るのである。

但し、中国人のように、子孫の繁栄を願って、
地形の良い所を探して、墓を建てる必要はない。
生きている間も、風光明娼とか、
名所旧跡に興味を持たず、
人間の生き様や食べることにしか関心を持てなかった人間が、
死んで眺望の素晴らしい所に住む必要はないと思う。

職住近接を唱え、
時間の無駄使いを惜しんだのだから、
あえて選ぶとすれば、
息子や娘たちが一年にーぺんか二へん、
墓参りに来るのにあまり時間のかからない便利な所であればよい。

墓の形については、多少の注文はあるが、
「世にも不思議なお墓の物語」に出てくるような、
墓石の業者を喜ばせるお墓の必要はない。





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2012年2月18日(月)

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