第71回
荘子の教え
人間の死を戯画化して、
私たちに教えてくれたのはほかならぬ荘子である。
荘子の中には生死を扱った寓話がいくつか出てくるが、
その中のーつにこういうのがある。
子桑戸、孟子反、子琴張の三人は友人になろうと思って、
お互いに向かって言った。
「誰か、付き合っていても
付き合っていると意識しないでいられるような、
また相手のためにしてもためにしていないような、
そんな付き合いのできる者はいないだろうか。
誰か天に登ったり、霧に遊んだり、
果てしない無の世界を駆け巡って、
生を忘れ去ることのできる者はいないだろうか」
そこで三人はお互いに顔を見合わせて笑い合い、
莫逆の友となった。
まもなく子桑戸が死んだ。
孔子は早速、弟子の子貢を葬式の手伝いに行かせたが、
行ってみると、葬式どころか、
ある者は蓆を編み続け、
ある者は琴をかき鳴らしながら、賑やかに歌っている。
桑戸よ、
ああ、桑戸よ、
おまえはもとへ戻ったというのに、
おれたちはまだ人間だ
ああ、ああ
子貢はそれを聞くと、そばへ行ってたしなめるように、
「死人を前にして歌を歌うのは礼に反しませんか」と言った。
孟子反と子琴張は互いに顔を見合わせて笑いながら、
「こいつにどうして礼の精神がわかるかい」と言った。
子貢は帰って孔子に事の次第を報告した。
いったい、あいつらは何者ですか。
不謹慎にも、死体を前にして歌なんぞ歌って
まったく救いようがないですね」
「やつらは浮世の外に遊ぶ連中で、わしらとは考え方が違う。
それを知っていながら、
お前を弔いに行かせたのが悪かった。
やつらは造物主を自らと同じ者と見なして、
天地自然に遊ぼうとしている。
生をコブかイボのように考え、
死をデキモノが潰れたぐらいに考えている。
そういう連中にどうして生と死のけじめがわかろう。
生と死を同じものだと見なして、
肝胆も耳目も忘れて、
始めも終りもみそくそにしているんだから
世俗の礼などわかるはずがないよ」
「では先生はどちらの肩を持ちますか」と子貢が聞いた。
「わしは天の罪人だ。人間世界から逃れることはできない。
しかし、お前と一緒に努力して
この世界から超越したいとは思っている」
「どうすれば超越することができるでしょうか」
「池を掘って魚を水に生かすように、道によって生きることだ。
水を得て魚が水を忘れるように、道を得て道を忘れることだ」
「ところで」と子貢が更に聞いた。
「倚人という言葉がありますが、
倚人とはどんな人間のことを言うのですか」
「倚人とは、衆人と異なって、天と同格のものだ。
ところが人の世では気違い扱いにされる。
だから天の小人は人の君子、人の小人は天の君子と言うべきだろう」
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