第67回
葬式は「徳力」のバロメーター
政界の離合集散を見たら、
私ていどの動きは何でもないかもしれないが、
私はこれでも文士のハシクレである。
政治家と違って、利害関係は私の行動基準ではない。
そういう人間のやることが
見る人に理解しにくいのは、
私の人物が理解しにくいのではなくて、
私が現実的な人間だからだと思う。
もともと私は実現できないような思想とはあまり縁がない。
現実が次々と変わって、
この間まで正しいと思っていたことでも
実現不可能になってしまうと、
もうそのことに固執しない。
唯一つ、固執することがあるとすれば
自分の生まれ故郷に対して、
顔向けができないようなことはやらないということである。
いま台湾で実権を握っている人たちや、
いま大陸で発言権を持っている人たちの思惑など
私にとってはどうでもよいことである。
文章を書いていく人間に不可欠の資質は、
「反常識」「反社会」「反体制」と信じているから、
一生その姿勢で貫こうと思っている。
そういう姿勢を今後も続けるとすれば、
俗に言うように「畳の上で死ねる」かどうか、
全く見当もつかないのである。
どうせいつかはどこかで死ぬのだから、
畳の上で死のうと死ぬまいと一向にかまわないが、
だんだん年をとるにつれて、
そう無謀な死に方をしようとは考えなくなった。
どこで死のうと、
死ねばやはり葬式はとりおこなう。
そういう場合にどういう葬式になるのだろうか、
想像してみるのも楽しいことである。
先ずどのくらい盛大かというと、
多分、中くらいに盛大だろう。
よく妻と、「どちらが先に死んだ方がよいか」
と話をすることがあるが、
妻は、「自分の方が早く死んだ方がよい」と言う。
どうしてかというと、
葬式は死んだ人のためにするよりも、
生きている人に自分の誠意を見せるために
参加するようなところがあるから、
妻が先に死ねば、盛大な葬式が期待できるが、
私が先に死んで、自分があとに残ったのでは、
淋しい葬式になるだろうというのである。
確かにその通りだが、
こればかりは運を天に任せるよりほかない。
葬式には実利的な面もあるけれども、
自己顕示欲を満足させる面もある。
だから、息子の結婚式には来てもらえない人でも、
葬式に来てもらえば嬉しいと思う。
子供の結婚式に来る人は、
まだこれからもつきあっていこうと思っている人か、
利害関係でつながっている人が多いが、
葬式に来てくれる人は、
本人の葬式である限り、お別れに来てくれる人たちである。
商売上のつきあいも、むろん、あるだろうけれども、
その人の一生の間で、
感情的なつながりがある人、
面倒を見てあげたことのある人、
向こうで教えてもらったと思っている人、
慕ってくれている人は必ずやってくる。
そういう人を数多く持っている人ほど
葬式は盛大になるから、葬式の大小は
「権力」や「金力」だけでなく、
「徳力」の、バロメーターになるようなところがある。
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