死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第54回
「馬が合う」医者を選べ

ではどういう医者を選んだらよいのだろうか。
医者を選ぶことも大切だが、私はその前に、
医者にどこまでを期待するのか、
予め線を引いておくのが先決だと思う。

さきにもふれたように、
「良医とは患者の自己恢復カが充分、
発揮できる環境づくりの上手な医者のこと」である。
とすれば、患者に自己恢復力がなければ、
死ぬのが理の当然であり、
それを無理矢理、引き延ばすことにはさして意味がない。

たとえば、癌の患者が末期的症状を呈している時に、
ただ心臓がとまるのを一分一秒でも引き延ばすために、
クスリ漬けにするのは、
本人の苦しみを延ばすだけのことで、
生命の原理にかなうことではない。

したがって自分になおる能力と
なおす意志のない者の治療まで
医者に押しつけるのは明らかに間違いである。

「健康という名の病」というコトバもあるように、
完全無欠な人間は、必ずしも長生きするとは限らない。

健康な人間は、病気の苦しみを理解できないから、
病人にあまり同情心がない。
したがって人間通になれないし、
また多くの人の心をとらえるような
スケールの大きな実業家にはなれないと言われている。

その点、病気を何か一つ二つ持っていると、
人の病気にも心を配るようになるし、
無理をしたりすると、忽ち身体にひびくから、
しぜん、身体にも気をつけるようになる。
「一病息災」というのは、なかなかうがった観察である。

私なども、糖尿病を持っているために、
医者の指示どおりにはやらないけれども、
何をやれば身体にひびくか自覚があるから、
スピード警報器を抱えて走っているようなものである。

制限速度を超過したら忽ちビービーと鳴るから、
結局は標準スピードの範囲内で走ることになるのである。

そうした心がけで医者に接するなら、
医者に対する過信も期待もなくなるから、
極端な言い方をすれば、
どんな医者にかかっても期待を裏切られることはない。

あとは心理的に承服できるかどうかの間題になるが、
医者の選び方のコツは、
医者として「研究心があるか」「知識が豊富か」
「カンの鋭い人か」「患者に親切であるか」
といった条件のほかに、
「馬が合うか」ということが肝心であると思う。

「馬が合う」というコトバ、
乗馬の習慣が絶減してからは、実感がなくなってしまったが、
一緒に話をしても、
また一緒に旅行をしても、
人には気の合う人と気の合わない人がある。

たとえば、酒飲みには酒飲み同士の呼吸があるし、
麻雀仲間には麻雀の醍醐味を享受している人間に
共通の共感がある。

医者とは、学校時代からの友達であるとか、
口ータリーの仲間である以外は、
病気にでもならないと知り合いになるチャンスはないが、
年をとってくれば、医者の一人や二人、
友達に持つ必要が生じてくる。

その場合、自分と「馬の合う」医者が良医であると思えば、
先ず間違いはない。
たとえば、酒好きの患者が酒を一滴も噌まない医者にかかると、
病気がなおっても、すぐ酒を飲ませてもらえないが、
同じような酒好きの医者にかかれば、
「少しくらいはいいでしょう」とすぐに許可が出る。

すると、自分でも恢復に向かいつつある
という気分になるから忽ち元気になって病気はなおってしまう。

このデンで行けば、
へビー・スモーカーの患者は
へビー・スモーカーの医者を探すべきだし、
女遊びの好きな患者は女遊びの好きな医者を
自分のホーム・ドク夕ーに選ぶべきであろう。

医者は大抵、自分の身体で人体実験をしているから、
どこまでが身体をこわさない限界で、
どこを越えれば駄目になるか、
ギリギリのラインを心得ている。

何回も繰り返すようだが、
「患者の自己恢復力の尻押しをするのが良医」なのだから、
大酒飲みや宵っ張りの患者にとっては、
大酒飲みや宵っ張りの医者こそ良医である
ということができるのである。





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2012年1月30日(水)

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