第52回
良い医者とは
だから、私は医者の言うことは、
ほどほどに聞くことにしている。
ある時、私の家で森莱薪さんを招待したら、
約束の時間を過ぎてもなかなか現われなかったことがあった。
生まれつきの方向オンチだから別に驚かないけれど、
一体、どこへ行ってしまったのだろうと心配していると、
一時間も遅れてやっと玄関のべルが鳴った。
「いくら探しても見つからなくて、
坂道でこけてしまったのですよ。
そうしたら、知らない人が自動車をとめて、
ここまで送ってきてくれました」
見ると、膝小僧に血がにじみ出ている。
うちの娘がびっくりして、
「センセー、オキシフルで消毒をしましょう」と言ったら、
莱薪さんはあわてて首を横にふり、
「いいえ。よろしいんですの。
父からケガをした時は自分でなおるから、
よけいなことをしないように、と教わって育ちましたから」
ころんだ時についたよごれも拭かずに、
莱薪さんはそのまま食卓についた。
莱薪さんのお父さんの鴎外先生は、
明治を代表する文豪であるけれども、
同時に、軍医総監であったことを私は思い出した。
生物には自己恢復力があることを、鴎外先生は、
医者である故に、よく心得ていたし、
それを実地に応用することを家族には指示していたのであろう。
だから、名医と呼ばれる人は、
人間の持つ自己恢復カが充分、
発揮できるような状態に
患者を誘導する術にたけた人のことであろう。
クスリや手術にたよらずに、
本人の力で恢復するに越したことはないのである。
私の生まれ故郷で、一番金持ちの家に育った男が
アメリカ留学から帰ってきて、
田舎の街で診療所を開業した。
風邪をひいて発熱中の患者が来ると、
ロクに診療もせず「風邪ですね。風邪にきくクスリはないから、
家に帰って白湯を飲んでフトンをかぶって休みなさい。
汗を出したら、熱はしぜんに下がってなおりますよ」と、
クスリの処方もせずに、追いかえした。
アーモンドの匂いのする風邪薬を期待してきた患者たちは、
期待を裏切られて、
「あの藪医者はクスリの処方も知らないんだよ」
と陰口をきいた。
本当のことを言えば、
医者の言うことの方が正しいんだが、
医者の本分は
「患者を自己恢復力の発揮できる状態に置く」ことだとすれば、
この人は患者を暗示にかけることのできる立場に居りながら、
逆に患者の期待を打ち砕いたという意味で、
良医とは言えないであろう。 |