死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第27回
微笑ましい母親への挨拶

それに比べれば、
蝋燭に火をともしてまわるくらい誰にでもできる。

ところが、うちの息子の結婚式の時は、
両方の父親が蝋燭の入ったガラスの壷をもたされて、
それに新郎新婦が来て火をつけるのをやらされたのには
びっくりした。

各テーブルに火をつけてまわる時間がなかったので、
簡略化したのだと息子は私に説明したが、
家の光を絶やさないためだとしたら、
息子の燭台にオヤジの方が灯をつけてやるのが
本筋ではないかと思う。
ホテルもいい加減なやり方をお客にすすめるものだな、
と首をかしげたが、衆人監視の下だから、
嫌だと言って断ることもできなかった。

もう一つ、新郎新婦の両親を並べておいて新郎が新婦の母親に、
新婦が新郎の母親にそれぞれ花東を贈呈する儀式がある。

結婚式が陳腐化、形式化した悪い標本として、
この花東贈呈を槍玉にあげているのを読んだことがあるが、
私はその考え方に必ずしも同調しない。

二十何年前、私が東京に移り住んだばかりの頃は、
結婚式に招ばれても花東贈呈などといった気のきいたことは
ついぞ見た覚えがないから、これまた近年定着した習慣であろう。

私は結婚披露の最後のクダリで、
新郎新婦がそれぞれ相手側の母親に花束を渡すのを見る度に、
いつも微笑ましい気分になる。
どうしてかというと、子供を育てるにあたって
一番苦労をしてきたのはほかならぬ母親であり、
母親にとって、子供の結婚は、
嫁もしくは婿にこれまで手塩にかけてきた
子供の後事を託することにほかならない。
また子供としても、
これで“乳離れ“ならぬ“母離れ“をするところだから、
それぞれ相手の母親に、お礼の気持を披涯する必要があろう。

来客全部の前で、花東を贈ることは、謝意を示すという意味でも、
また新しくできた“お母さん“に挨拶をするという意味でも、
私たちのように、「親孝行は人間の守るべき倫理」
と考えている者にとっては、ごく自然の表現に思えるのである。

だから、娘の結婚式の時も、息子の結婚式の時も、
ホテルの花束代が高いといって文句は言ったけれど、
「花は要らない」とアメリカのギャング映画のタイトルのような
セリフはついに吐かなかったのである。





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2012年12月20日(木)

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