死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第14回
教会での式が「カッコいい」

結婚式にしても、葬式にしても、
世に言う冠婚葬祭はどうしてこうも退屈なんだろうか。

思うに、結婚式でも葬式でも長い間に、
何とはなしに一つの型ができてしまって、
その通りにやれば、バカバカしくはあっても
無難だと皆が思うようになったからではあるまいか。

葬式についてはのちに触れるとして、
息子の結婚式をやるにあたって、
せめて来客に退屈させない方法はないかと考えた。

来客が退屈するかどうかは、
自分がお客になって
結婚式に参加した時のことを思い出せばよい。

通常、結婚のしきたりは、
結婚式が行われてから、そのあとで結婚披露が行われる。
そのあと、地方都市などは
新婚旅行に出かけるカップルを
駅まで送り出しておしまいというのが多いが、
東京や大阪のホテルで結婚披露をすると、
その晩は新婚夫婦の宿泊料をサービスするので、
一夜明けてから家へ帰るか、
それから新婚旅行に出かけるようである。

新婚の最初の夜を自分の家でなく、
ホテルで明かすのも、
考えてみれば、まことに奇妙な風習で、
結婚は浮気のはじまりみたいな印象を受けるが、
もっとおかしいのは、
結婚披露に先立って行われる結婚式に、
神様の方がホテルに出張してくるようになったことであろう。

結婚式は、二人がこれから夫婦としてやって行くことを
神様に誓うことからスタートするが、
神様にも色々あって、
結婚する人がこれを選ぶ。

日本の場合だと、大別して、
神式とキリスト教式があるが、
キリスト教式といっても正確には、
カトリックとプロテスタントの区別があり、
中国人だと、祖先の位牌を拝むから
仏式とでもいうべきものがこれに加わる。
回教やヒンズー教になると、神様は更に違ってくる。

昔の人は、自分たちの信じている神様だけが
神様であると思い込んでいたが、
今のように地球が狭くなり、
神様は実は一人だけでなく、
あれこれ商売仇みたいにいっばいいることがわかると、
神が人を創ったという神話があやしくなり、
人が神を選ぶようになる。

現にうちの長女も、うちの長男も、
自分たちの結婚にあたってキリスト教式の結婚式を選んだ。
私は幼い時は、孔子のように祭事をこのみ、
天を祭ったり地を祭ったりすることに熱心であったが、
やや長ずるに及んで、キりスト教の教会にもかよったし、
また強制されて神社参拝にも行った。

しかし、色々わたり歩いた結果、
サマセット・モームのように無神論者になってしまった。

ただ私はつきあいのよい方だから、
神社の拝殿の前に立てば、かしわ手の一つも打つし、
教会で葬式に立ちあえば、アーメンの1つも唱える。

また故郷へ帰って、関羽や媽祖の廟に行けば、
線香も立てれば、金銀紙も焼く。

ただ人生を終ってから最後にお前はどこに行くかときかれたら、
そのどちらにもわらじを脱がせてもらう気はなく、
カルシウムと炭酸ガスと水蒸気と化するだけと思っているところが
無神論者なのである。

しかし、そういう不信心な親の元に生まれた子供たちでも、
いざ結婚式となると、やはり神の前で、
自分たちの決心を誓いたくなる。

その際、家にきちんとした宗教のある人なら、
何式の結婚式にするか、迷うことは全くないが、
うちの子供たちがキリスト教式を選んだ動機をきくと、
「キリスト教式が一番カッコいいから」だそうである。





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2012年12月5日(水)

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