死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第8回
なぜ結婚式はオヤジのものか

金をかけた結婚式の流行

結婚式は年々、盛大になっている。
映画女優や相撲取りの結婚式ともなると、
テレビで放映されたり、
週刊誌に書かれたりすることも勘定に入れて、
「結婚費用一億円」などと想像を絶する豪華さだが、
むろん、金額も水増しなら、引出物も揚げ底で、
まして結婚していくばくもたたないうちに、
もうはや別れ話ときたら、ツョー的要素ばかりが目立ってしまう。

だから、堅気の人たちの真似をすべきことではないが、
堅気といえども近頃は、
経済の許す限りは、結婚式にお金をかけるようになってきた。

「昔のことを考えたら、
そういう風潮は感心したことではない、
もっと質素にやるべきだ」という意見をよく耳にする。
いつの時代でも贅沢には批判的なストイック派がおるものである。

その意見を時の権力者がとり入れていわゆる
「世直し」をした時代もあった。
徳川時代でいえば、田沼意次のワイロ政治のあとを受けた
松平定信の「寛政の改革」がそれである。

戦前の日本の修身の教科書では、
松平定信とか上杉鷹山とか二宮尊徳のような
勤倹貯蓄型の人物を高く評価する傾向があったが、
私は日本の歴史に対して客観的な立場だったから、
物書きになると、そうした評価に疑問を持ち、
世間の常識を打ち破るために、
『田沼学校』とか『新説二宮尊徳』とかいった小説を書いた。

私が調べた限りでは、
田沼意次はなかなかスケールの大きな人物で、
大っぴらに諸大名からワイロを要求したが、
ワイロの取り方にもちゃんと大義名分とルールがあった。

まずどうして猟官運動に来た大名からワイロを取ったかというと、
諸大名の財政が豊かになると、
徳川家に謀叛をおこす心配がある。
彼らの欲しがる役職をあたえる代わりに、
あらゆるチャンスに金をまきあげることが
その謀叛心をおさえることになり、
ひいては徳川家のためになると心得ていたのである。

第二にワイロを取ることは取ったが、
二重取りはやらなかった。
たとえば一つの役職があいた時、それを狙って
三百両包んでくる大名がある。

意次は用向きを聞くと、
「用向きの件はわかった。お志しの物はしばらく預る」といって、
中を改めてから手元においておく。
次に別の大名が同じ目的でやってくる。
中を改めると、五百両入っている。
すると、先の大名の用人を呼んで、
「残念ながら、お志しに添えないようなので」といって、
預った金を返している。

一番たくさん出した奴を、
役につかせたわけではないが、
要するに、二重取り、三重取りはやらなかった。

その点、いまの政治家が総裁選挙などで、
あまりきれいでないお金の取り方をするのとは
一線画するところがある。





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2012年11月29日(木)

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