第271回
西郷さんの平和賞
私が東京に住んでいた子供の頃に、
「西郷さんは偉い人」と声に出して言う遊びを知りました。
銅像は上野に立っているし、偉い人らしいと思いましたが、
学校で習ってみると、政府に戦争を仕掛けて死んだ人でした。
後には「征韓論」の支持者だったことも知りました。
この人を日本人が尊敬していることは、
韓国の人に悪いような気もします。
ブッシュのノーベル平和賞はどうかと思いますが、
西郷と勝が主役となった大政奉還は、
日本平和賞でも最高のものでしょう。
その行為を尊敬し、平和賞で賞賛したとしても、
西郷の行なった行為は大き過ぎて賞賛しきれません。
しかし、そうであっても、行為を賞賛するにとどめ、
人物の方は100%は尊敬しないほうが、現実に即しています。
西郷の場合は、その後の行為が平和賞に値しません。
大政奉還の時には、西郷と勝海舟、その他の人がいて
内乱を避けられたのは日本の幸運でした。
しかし征韓論者の西郷は、
戦争そのものは嫌いでもなかったらしくて、
その後も担ぎ出されて西南の役の主役になりました。
それがよい結果を生んだか悪かったかは又別の話です。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、
逆も真なりの真似をして、
「善を愛して人を愛さず」と言ってみます。
こうなると
「行った良い行為を愛するのであって、
人物の全人格を愛するのではない」
といったようなことになります。
行為を尊敬はしても、その人を全面的に尊敬するのでなければ、
その人に「裏切られた」と感じることもないでしょう。
現代の先進国の裁判はこの方式なので、
以前に良いことをした立派な人だからといって罪は軽くなりません。
この方式を欧州人は合理的に感じます。
「お前のした善きことは覚えられない」
と、現在は世界に広がった、
砂漠の「神が言った」ということになっています。
善人で通っている人でも、
以前に行なった善い事でも、最近行なった罰の軽減に
影響を与えることができないということです。
それで、ひとつひとつの罪が独立させられて裁かれるのです。
近代国家の形をとる国の裁判は、
だいたいこの砂漠の古いやり方に順じているようです。
これが砂漠の数千年の伝統ですが、砂漠の伝統は他にも色々あって、
これが一般的というわけでは、まったくないのですが。
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