前川正博さんはこうして
福祉の国で、国にたよらずに根をおろしました

第12回
出稼ぎもつらいよ

開店してしばらくたったある日のことでした。
ものすごく人相の悪い濃い茶色の顔の男がやってきて、
こちらが何事かと思うような目つきでギョロリと目をむきました。
それが一番近くの競争相手で
歩行者天国の大きな写真屋の持ち主のインド人でした。
どうやら緊張すると、どうしてもそういう顔になるようです。
一時間仕上げの写真を彼の店に卸さないか、という話でした。
競争相手に卸せと言われるのは意外でしたが、
厳しい卸値はともかく有りがたい話です。
我々の転機のきっかけを作ってくれた人物の登場でした。
それらは総て彼の都合でそうなったのでしたが、
こちらも結局は向こうの何割かは利益を頂きました。
「値段は下げるな」「客のいうをきくな」と
なんだか向こうの都合に合せたような
店の心得を得々と喋って帰っていきました。

その夏に彼の紹介で
少し離れた町の駅ビルに毎日出稼ぎに行きました。
写真の材料会社のミニラボの雇われ店長の使い込みがばれて
代りを探していたのです。麻薬の常習者でした。
経験不十分の私が
大事な自分の店を離れてそちらの臨時店長にまわりました。
給料は我々の会社の収入として銀行に直接に払い込まれます。
この店の機械は
まったくメンテナンスをしてなかったので困りました。
現像機はひどい状態になっていましたし、
写真に傷は出るわ現像紙は詰まるわで、
何度も分解掃除が必要でした。
それにやたらと遅くてやたらと図体がでかいのです。
ですから重たくて掃除は大変でした。
何度も店の終わった後で遅くまで残って整備をしました。
しかし機械の速度が遅いのと、
どうしても出来上がりが安定しないのはしかたありません。

実はこの店は元々は
そのインド人の近所に住んでいる
知り合いの夫婦が始めたのでした。
その旦那さんは警官で、
お巡りさんがが会社を設立して始めたサイドビジネスでした。
その人が非番の時と奥さんとで
一緒に店を始めたものの、左前になって投げたのでした。
ここは纏めて買い受けないかという話で
働きながら様子を見たのですが、断りました。


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2004年8月3日(火)

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